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なぜこだわる?商業捕鯨

もう大分前の話だが、五反田の路地裏、小さな居酒屋で、以前勤めていた会社の人間と鯨肉をつつきながら話に興じた事が有る。
鯨肉料理が看板の小さな居酒屋で、退職後の会社の様子や相変わらずのドタバタ振りに笑ったり同情したりしている内にあっという間に時間が過ぎて、危うく終電に乗り遅れるところであったのだが、こんな席に貴重な鯨肉料理はなぜかピッタリ。「山くじら」と称して獣肉を食っていたという江戸の人達の気分も何となく解る様な気もしないでもない。
鯨の竜田揚げが給食のメニューとして出されていたのは何時頃までなのだろうか?調べた事は無いが昭和30年代生まれの我々が多分最後であろう。海面での跳ね返りを防ぎ、命中率を上げる為に開発されたという平頭銛の逸話を教科書で学んだ記憶も有る。巨大な捕鯨船や引き上げられた巨大な鯨の写真と共に開発者達の苦労が偲ばれる話では有るが、戦後の食糧難を知らない世代である私としては何でそんな苦労をしてまで、しかも遠く南氷洋まで出かけてわざわざ鯨を取りに行くのか、子供ながら不思議に思った記憶が有る。


先頃アンカレジで開かれていたIWC国際捕鯨委員会からのニュース。
この国際捕鯨委員会とやら、本来は鯨類の保護と資源としての活用に関して冷静に話し合う場の筈なのに、メディアを通じて漏れ聞こえて来る情報は支離滅裂でネガティブなものばかり。捕鯨国、反捕鯨国ともお互いの主張をゴリ押しする為の政治活動の場となっているかのようだ。今回も例に拠って日本側の主張が認められない公算が強くなったらしく、主張を取り下げた上で「IWCからの脱会や新機関の設立の可能性もある」として2009年の横浜開催も辞退したとか。
国際機関からの脱会と言うと、第二次世界大戦に繋がった国際連盟からの脱会を連想させてあまり気分の良いものでは無い。
幸いにも水産庁には脱会の具体的なスケジュールや意志は無い様で、捕鯨反対国陣営に対する単なる『脅し』という事らしい。
何でも日本沿岸のミンク鯨捕鯨をIWCでも認められている「先住民のよる伝統的鯨猟」として認めて欲しいという主張だったようだが、既に(頭数限定ながら)認められている沿岸捕鯨と違って、水産庁が音頭をとって捕鯨船をしたてて出て行く猟を「先住民のよる伝統的鯨猟」と一緒にするのはどう考えても無理が有るんじゃあなかろうか。
それはともかく、私がこの手のニュースを眼にして常々不思議に思うのは何故水産庁はこうまでも『商業捕鯨』にこだわるのか?という疑問だ。
仮に今、商業捕鯨が再開されたとして鯨肉にどれほどの需要が見込めるだろうか?。中年以降の世代は鯨肉の味を懐かいと思いつつも今更毎日食いたいとは思わないだろうし、若者にとって鯨は食べるものでは無くウォッチングするものだ。
もちろん鯨の利用は食肉に留まらず医薬品や化粧品、日用品など様々なのかもしれない、だとしても以前の様に大船団を仕立てて南極まで出かけて行く経費を賄える程の需要が有るとも思えず、商業捕鯨再開の為の設備投資と赤字解消の為に例のごとく税金が注ぎ込まれる様な事態になれば本末転倒、とんでもない話しだ。それともここにも何か我々の知らない巨大な利権が絡んでいるのか?
それにしても何故かこと捕鯨問題となると渦中の水産庁はもとより、一般人でも妙に熱くなり『プチ・ナショナリスト』と化す人が少なからず居るのはどう言う訳か。

さて肝心の鯨の生息数に関しては、ミンク鯨に限れば増えていると言うのが通説のようだが、海洋生物の精密な調査をするのは難しく、あくまで生態調査の結果得られたデーターからの推測に過ぎないようで、実際のところ解釈の仕方によって大きな違いが生じるものらしい。一方、海洋食物連鎖の頂点に立つ鯨には水銀などの汚染物質の蓄積が懸念されていて、各地で頻発している鯨類の座礁や船舶との衝突事故との関連も指摘されている。この問題を無視したまま商業捕鯨を再開、鯨肉が流通すれば、海を舞台にした日本発、第二のBSE問題が発生しないとも限らない。(鯨類の座礁に関しては潜水艦のソナーの影響も大きく、このあたりはアメリカのダブルスタンダード全開という感じではある)

増加した鯨が魚を食い尽くしてしまうと本気で心配する人も居るようだが、被補食生物が少なくなれば補食動物の数も減るのが自然の摂理。心配する程の事でも有るまい。
本来は放っとけば「増え過ぎた」ミンク鯨も自然に少なくなる筈だが、問題はそこに「人間」が介在せざるを得ない事で、人間が係わる事で自然のバランスを崩す事が無い様、捕鯨国、反捕鯨国とも根気よく冷静に議論を深めて行って貰いたい、その結果得られた貴重な鯨肉は、自然界からの貴重なプレゼントとして我々が有り難くいただかせて貰いましょう。

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Comments

もし増えていたとしても、2年に1頭しか生まない現状であれば、捕獲解禁としても鯨肉としての捕獲生産量は、自主制限せざるおえないと思います。つまり、鯨肉は、牛とか豚と違い、生産目的で、牧畜管理されていないので、数の面からも、捕獲(=生産)コストからも非常に割高にならざるおえない。当然参入される業者も限定されるでしょうし、そうなると、参入できる業者の独占市場となるでしょう。こうして考えると、日常食卓に上るには、あまりに高価な食品となるでしょうね。日本は食文化とか言いますが、一部お金持ちのための嗜好品を確保してまでの食文化を守る必要はあるでしょうか。もし、あまり消費されないとしたら、過剰に捕獲された鯨は、デッドストックになってしまい、無駄死状態でしょう。だいたい、このような前提条件で、捕鯨は産業として成り立つのでしょうか・・・。100グラム100円未満を実現できないと、恒常的な産業としての捕鯨は、難しいし、恒常的に消費が難しいと食文化と考えにくいと思います。

Posted by: ほいほい | July 20, 2007 at 04:49 PM

ほいほい様>
コメントいただきありがとうございます。
捕鯨が産業として成り立つのか?という疑問
私も全く同感です。
本文でも触れましたが、今捕鯨を再開したところで先ず消費者がほとんど居ない商品が商業ベースでなりたつのか。
実は戦前において日本の捕鯨は鯨油や細工品を欧米に輸出する為に行われており、鯨肉が安価な食材として広く出回ったのは太平洋戦争直後の食糧難でそれまで殆ど利用していなかった鯨肉を流通させたからなのだそうです。
戦中世代にとっては嫌な思い出であり、若者は一度も食べた事が無いという人が殆どでしょう。
その意味では鯨肉の味を懐かしいと思うのは団塊から新人類第一世代まで、60代からせいぜい40代までではないしょうか。
加えて食料資源として鯨をみるとその生息数はあまりに脆弱。
とてもではないが安定供給できるものでは無いようです。
このあたりのデーターは駒沢亭日乗さんの以下記事を参照してみてください
http://komazawa.blogzine.jp/diary/2007/06/post_c208.html

食文化云々という件に関しては、古代から細々と続けられて来た伝統的小規模捕鯨は別として、仮に鯨肉食を文化として認めたとしても事実上忘れられた文化であり声高に主張出来る話ではないのではないかとも感じます。
捕鯨に関しては産業としての見方、生態系、環境としての見方、感情論や宗教観からくる考え方の違い、政治的な対立など様々な思惑が反映されていて一筋縄ではいかないようですが
捕鯨国、反捕鯨国全てに言える事として
国のメンツや偏狭なナショナリズムの為に捕鯨の是非を論じないでいただきたい。
これだけはお願いしたいものです。

Posted by: ヨシヲ | July 24, 2007 at 02:27 PM

自己レスです。
余談ですが上野の国立科学博物館(かはく)に鯨の寄生虫の展示があるのですが、これを見てしまうとちょっと鯨を食べるという気が失せてしまいます。心臓の弱い方は要注意(笑)

Posted by: ヨシヲ | July 31, 2007 at 02:46 AM

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捕鯨問題に関して、日本の主張は概ね正しい。とても論理的だ。しかし、それはたいして意味を持たない。国際社会では、必ずしも正しいほうが勝つとは限らないからだ。 地球は大きな「ムラ社会」だ。たとえ正しくても、枠組みに刃向かう少数派は、あれこれ難癖... [Read More]

Tracked on June 04, 2007 at 08:42 PM

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