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August 2005

北海道マラソンTV観戦

日曜日の昼下がり、北海道マラソン後半戦の様子をテレビで観戦した。
湿度が低く爽やかな北海道の夏は(蒸し暑い関東に比べれば本当に天国)、真冬の関東よりマラソンに向いているかもしれない。
サブ・フォ−レベルの一般市民ランナーも参加する大きな大会らしいのだが、やはり注目はエリートランナーの成績。それも女子が脚光を浴びるのは昨今の国際大会での結果を見れば致し方ないところ(先日のヘルシンキ世界陸上では男子の頑張りが光っていたが)
大会新記録をたたき出しての連続優勝を果たし、小出監督というカリスマ指導者の下を離れてもなをその存在感をアピールした千葉真子選手も立派だが、私が注目していたのは今回一般ランナーとして参加していた市橋有里選手の成績だ。天才ランナーと言われながらもやや早めにオリンピックという檜舞台を与えられてしまった事で、しかも只ひとりいち早く内定を貰った事で心無い中傷なども受け、結果燃え尽きてしまった感のあった市橋だったが、今回奇しくもシドニーオリンピックの順位と同じ15位での完走を果たした事で改めて競技者としてのスタートラインに立ち戻ったとも言える。本人にとっても完走は自信に繋がったようで、TV中継に映る事こそなかったものの、競技ランナーとしての決意を新たにした様子が新聞などで報道されています。
年令もまだ27才、ランナーとしてはこれからがまさに円熟期でもある訳で、頑張ってもらいたいものです。

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処暑

今年は8月23日。
『陽気とどまりて、初めて退き止まんとすればなり』

暦の上では暑さが止む頃、とはいえ今年はまだまだ残暑厳しそうです。
忙しく、気分的にも慌ただしくて何一つ夏らしい事も出来なかった今年の夏も、アスファルトの上でもがく油蝉とともに過ぎて行く、こんな夏もたまには良いか?

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筑波エクスプレス初乗り

筑波研究都市へ打ち合わせに行く為に、先週開通したばかりのTX「筑波エクスプレス」に乗ってきました。
先ずは久しぶりに訪れた秋葉原駅周辺の変ぼうぶりにびっくり。袋小路や決して綺麗とは言えない昭和の香漂う界隈がぴかぴかの未来都市風に変貌しているではないですか!。以前秋葉原近くの会社に勤めており、毎朝ヤッチャ場脇を歩いていたのが思い出されます。秋葉原もまだ今の様なヲタクの街ではなく、首都圏から客を集める大電気街でした。

電車は成る程噂に違わぬ早さとスムーズさ、通勤電車というよりミニ新幹線といった感じ。一方軽量化の為か車内はかなりシンプルな造りで、機能性を重んじたむしろ質素な趣き。ガタンゴトンというローカル電車的な音も無く、ガ−と言ったっきりで沿線風景もやや単調なので眠気をさそいます。
つくばに近づくにつれて大きくなる車窓の筑波山がきれいでした。

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エ〜!あのホリエモンが立候補

さすがにびっくりである。
突然と見せて実は予定調和的な衆議院解散劇も、あるいは世論の風を読んで靖国参拝を取り止めて見せるなかなかの豹変ぶりも、反対派に対して刺客なる候補者を送り込んだり寝返り組に踏み絵を踏ませたりと、徳川家康ばりのタヌキ親父ぶりを見せつける小泉自民党のしたたかさにもさして驚きはしないが、いつのまにかオバチャンになってしまった(失礼)猪口教授や舛添の元女房氏はともかく、あのホリエモンに立候補を打診するとは。
事業拡充の為に政治力が必要と本人もやる気であるようだ。以前から政治的ともとれる発言を行っていたし、やるからには与党でなければメリットが無いという事なのだろう、このえげつなさこそ公社でも特殊法人でもない民間企業人「あきんど」の鑑ともいえる姿である。ニッポン放送株買収の際には、多分眉をひそめていたであろう熱烈自民党支持者のオッサン達の困惑した顔が目に浮かぶ。

しかしどうだろうか、初戦を有利に戦っていた自民党が此所へ来てついに勇み足を踏んだような気がしないでも無い。辻本清美氏の社民党からの立候補にも少々驚いたが、既に人材が殆どいない社民党とあれば致し方ないし、彼女の議員としての押しの強さは格好ばかり良い議員が多い中ワン・アンド・オンリ−の魅力を持っている事は確かだ。
それに対してホリエモンはどうなのか?落選しても当選しても「想定の範囲内」なのであろうか。

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謎とき日本近現代史

最近の出版界では新書版の刊行が静かなブームらしい。
講談社から発刊されている「講談社新書」には、地理、歴史ものの調味深いタイトルも多く、読書欲をそそられるが、最近読んだのが表題の「謎とき日本近現代史」野島博之著。著者は某予備校で日本史を教えている人らしい。全体的には講議の内容をそのまま書き写したごとく平易な文体の語り調が特徴。明治維新による武士の凋落に始まり、第一次石油危機に至るまで著者による主観を極力避け、相互に連関して決して単純では無い歴史の流れの全体像を、各時代区分を代表する事件、世相を軸にトピック的に解説して行く。それぞれのトピックについて突っ込み深く理論を展開している訳では無いが、少し引いて全体を眺める様な論点はなかなか良く出来ているし、何より平易で楽に読めるのが良い。

長い不況や長期的な国力減少に対する漠然とした不安。中韓で広まる対日強行路線や反日デモ、憲法改正問題や国連常任理事国入りに対する逆風等々日本を取り巻く情勢は厳しく、それに対する不安からか日本人のアイデンテティを求めようとするあまり懐古的な歴史観に嵌る人も少なく無いと思うが、そんな人達にとっても本書は正しい歴史解釈の必要性を感じるツールとして役立つかも知れない。インターネットの掲示板に政治的な発言を残すなら最低このくらいの予備知識を持って臨むべし、という感じでしょうか(自戒的意味も込めて)。

本書の中で私自身が興味深く感じたのは戦前における政党政治の弱体ぶりと戦前にも有った憲法(解釈)論儀に関する記述だ。
読後の全体的な印象として、日本が戦争に突入して行った最大の原因は詰まるところ戦前における政党政治のぜい弱性、議会の外にある枢密院や軍部といった船頭の多さ、天皇大権の解釈の変化、それらの根本を為す明治憲法の(現代的な視点から眺めたところの)危うさに有る。まあ現代においても政党、政治に対する不信感は根強いわけだが、明治憲法下では政党自体が今日の様に保証されたものではなく、故に政党内閣は常に不信任の危機に晒されて深刻な政策の誤りも生じやすくなり、それが国民の不信感を増大させ、軍部台頭への漠然とした期待感が醸成される、といった流れだ。

国民主権の考えが明文化されていなかった明治憲法下において、天皇を国家の最高機関として憲法のコントロール下に置く事により、相対的に生じる民主主義を主張した美濃部辰吉の天皇機関説や、普通選挙の重要性を説いた吉野作造の民本主義などによって「大正デモクラシー」が花開いたのも束の間、民本主義を代表するべき政党政治の自壊によって政治面では軍部による発言力の増大と予算の突出、思想面においては天皇主権説が勢力を増して行き、戦争への連鎖反応が進むのにさしたる時間はかからなかった事になる。

昨今憲法改正が大きな議論となっている。自民党のそもそもの党是は自主憲法制定だし、民主党もその自民党から移った人が多い以上、憲法改正の主張が出て来る事は何ら不自然では無い。私自身も仮に憲法条文に不備が在れば改正をタブー視するべきでは無いと思っている。しかしこの本を読んだ後、終戦直後の憲法制定の時代に想像力を働かせてみると、日本国憲法制定時多くの日本人がこれを歓迎したというのも、勿論戦争に負けたからではあるが単にそれだけではなく、それが果てしない戦争に突入する以前、日本人自らによって想起されていた内容の具現化であったからであり、それを可能にしたのはワシントン条約締結以降、大平洋の向こうから日本を注視し続けたアメリカの緻密な計算と研究によるものだったのではないだろうか?と感じられるのだ。

くり返すが日本国憲法は、制定の経緯はともあれ、また戦争放棄の規定は置くとして、その内容は戦前日本人自らの手によって研究されながら遂に実行する事が出来なかった諸々の事柄を戦勝国アメリカの手を借りて実行に移したのに過ぎず、決して世の多くの人が思う様に押し付けられた物では無いと解釈する事も可能だ。その辺はしっかり頭に入れておくべきではないかと思う。

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縄文VS弥生展

久しぶりに上野方面へと出かけたついでに、国立科学博物館で開催されている「縄文VS弥生展」を見に行った。
首都圏にあまた在る自然史系博物館の親分格である国立科学博物館、通称「かはく」は只今大改装中。パリの自然史博物館を参考にしたと思われるお洒落でスマートな展示室の一部は既に公開されているがこの日は生憎時間が無い為特別展のみの観覧となった。

近年の年代測定技術の進歩に伴って、いわゆる弥生時代の始まりが従来言われていた紀元前2世紀頃より500年遡った時代である事が判明したという記事を最近新聞の片隅で読んだ覚えがあるが、どうやらこの研究成果を発表しつつ夏休みの子供達の自由研究のネタを提供すると言うのが今回の特別展示の主旨であるらしい。この500年遡ると言う事が何を意味するかと言うと、大陸から稲作技術と武器を持ってやって来た弥生人達によって縄文人と縄文文化が急速に同化、駆逐されて消えて行ったという従来の常識がどうやら根底から覆えされてしまうようなのだ。このあたり古代史に興味のない人にとってはさっぱりだろうと思うがまあそういう人は放っておいて話を先に進めると、縄文人は基本的に狩猟採集を生業としていて出生率は低い、一方農業を主とした集団は出生率が高い。狩猟採集を生業とする一つの人類集団の中に農業で食って行く人間が僅か0.1パーセント程度混じるだけで、特に戦争や疫病などが無くても技術や文化、顔つきや身体的特徴まで丸ごとすっかり変わってしまう、それほどの時間的余裕があった、という事らしいのだ。最初に弥生文化をもたらした人々が大陸からやって来た少数の渡来人であることは間違い無いだろうが、縄文人対弥生人の民族の存亡を賭けた争いといったある意味ロマンチックな冒険活劇はなかった、という事らしい。

という訳なのだが展示自体にはそれ程目新しい物は無い。というよりやや総花的で突っ込み不足のように感じられなくも無いのだが、夏休みの子供達も対象としている展示のようなので致し方ないかもしれない。各地の遺跡や貝塚から発掘された人骨が多数展示されているので苦手な方は要注意。従来なら歴史系博物館で扱われる事の多いテーマを自然史系博物館で展示するという事に何らかの意味がある様にも感じられる。

しかし今回何といっても特筆すべきは縄文人と弥生人の扮装をした若い女性2人をモチーフにしたビジュアル戦略でしょう。電車の中刷りや新聞の片隅等にも登場しているので首都圏に住む多くの方が目にしていると思うが携帯電話やゲームに興じる彼女達のビジュアルが会場までのアプローチからテーマ毎の解説パネルに至るまで徹底的に使われていて嫌が応でも目に入る。純朴な男子中学生など恥ずかしくて正視出来ないかも(笑)まあ最近の中学生は違うのかもかもしれないが。ユニクロなどの広告でもお馴染みの手法を取り入れた物で、今回成功しているかどうかは微妙だが博物館の広告手法として新鮮であることは事実。どんどんやって貰いたい。

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20年目の夏

確かあの日も暑い夏の日だった、私はまだ設計の仕事を始めたばかりの20代のぺ−ぺ−であり、短い夏休みを目前に控えていつもの様に残業をしていた。1985年8月12日。羽田から大阪伊丹空港にに向けて飛び立った日本航空JAL123便が奥多摩上空を飛行する姿が目撃されたのを最後に消息を断つ。
群馬県上野村の山中に墜落している姿が発見されたのは翌朝だった様に記憶している。その後事故現場の凄惨な様子が報道を通じて明らかになるにつれそのあまりの悲惨さに驚愕した思いが今だに皮膚感覚で思い出される。
その後私自身旅行や仕事で何度となく飛行機に乗る機会があったが、未だにちょっとした揺れでも心臓がバクバクしてしまうのはあの事故報道のトラウマである事は間違い無い。私と同様な思いを抱えている人は多いと思う。

御存じの通りあの事故では4人の生存者が居た、当時14才だった川上慶子さんも結婚して幸せに暮しているそうである、そういえば阪神淡路大震災の時には看護士として人命救助に奔走する様子が報道されてもいた。
生存者の証言によると墜落直後まだ多くの人が生きていてあちらこちらで家族の会話が聞こえていたが米軍と見られるヘリコプターが遠ざかって以後は沈黙が支配する様になって行ったという。多くの人が力尽きていったのだ。
川上慶子さんの近況と共にその様子を伝える週刊誌の記事を立ち読みしながら思わず落涙しそうになってしまった。「どうか安らかに」という言葉もなにかむなしい。

ところで一昨日福岡へ出張し昨夜福岡空港から飛行機に乗って帰って来たのだが、今夜その福岡空港からハワイに飛び立った飛行機がエンジンの爆発を起こし引き返したそうである、ニュース映像では薄やみの中上昇する飛行機のエンジンが突如火を吹く衝撃的な映像が流れていた。安全システムの破たんを感じさせる笑えないトラブルが続く。

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宇宙戦争

かつて日本の映画、小説界にも空前のSFブームを巻き起こした「スターウォーズ」VS「未知との遭遇」以来約25年(26年?)。当時とは技術も思想も社会情勢も異なる現代という時代に向けて、いまやアメリカ映画界の重鎮となったルーカスとスピルバ−グ2人の映画監督によるSF世界を舞台にしたガチンコ対決が再現された。

東西冷戦の最中、時代の気分を反映してか悪の帝国との明確な戦いを展開した「スターウォーズ」に対して「未知との遭遇」や「ET」といった作品で友好的な宇宙人を描き続けたスピルバーグ監督だが、テロリズムが蔓延し文明の衝突、地球環境異変という新たな危機に直面しつつ在る現代、さすがのスピルバーグ監督も「侵略者としての宇宙人」を描かざるを得なくなった様だ。

突然の嵐と雷鳴を伴って地球に来襲する侵略者達、町中に突如出現した戦闘機械トライポットにより何が起きたのか訳も解らないまま「駆除」されていく人類。(スチームなど吐いてコミカル且つ無気味なトライポットのデザインは、有名なタコ型宇宙人を連想させるなかなかの傑作だと思う)
侵略者達の攻撃は、ただひたすらに好戦的、無慈悲且つ無敵であり、逃げまどう人類にとってはその意味も目的も知る由はない。このあたり「ジョーズ」に登場するホオジロザメや「激突」のトレーラーなど、かつてのスピルバーグ作品にしばしば表れたテーマと共通性が在るように思う。

突如襲って来た未知の敵に訳も解らないまま蹂躙され、切れかかった絆をかろうじて繋ぎ止めようとする親子を描いた序盤。アメリカ人がかつて経験した事のない難民の大量発生、群集心理に拠るパニックの恐怖。何の理由も明らかにしないまま全てを破壊し尽くす戦闘機械の攻撃から必死の逃避行を続ける前半。遂に逃げ場を失い閉じ込められて密室劇の様相を呈する後半。そして少々呆気無い幕切れ。
この種の映画にしばしば使われる「人間ドラマが描かれていない」という評価も、親子の絆、群集心理やパニック、密室での恐怖などがきちんと押さえられていて安心して?見ていられる。加えて川面に浮かぶ死体。炎に包まれ爆走する列車を前にしても特に驚く様子も無く遮断器が上がるのを待つ群集の不気味さ、娯楽性の中にリアルな恐怖感を巧みに織り込んで見せる手腕はさすがだ

その気になればウェルズの原作を大胆に脚色してよりドラマチックなラストにすることも出来たと思うが、敢えてそれをせず、呆気無い程の幕切れとしたのは何故だろうか。勿論SF小説家の草分けであるウエルズへの敬意もあるだろうが、人知を超えた力に人間の文明は無力だと言う事、人類を救う事と成るのは我々人類も含まれる地球に生きる生命の営みそれ自体であったとするラストはむしろ現代にこそ通用するテーマであって変更する必要性無し、と判断したのかもしれない。その意味で「インディペンデンスデイ」の様なマッチョで退屈な解決法々を選ばなかったのは全く正解だと思う。ラスト近く、凶悪だった筈の戦闘機械にカラスがとまっているシーンが非常に印象的だ。またこの映画の主観は何度も言う様に突如として未知の敵に蹂躙され、かつて経験した事のない想像を絶する危機、逃避行を強いられる一アメリカ人家族の視点であって、多分同時進行的に何処かで行われている筈の「政府や国家」対「宇宙人」を描いているのでは無い。タイトルに反して国家規模での戦争を俯瞰している訳では無いので、唐突に登場してエイリアンにコテンパンにやられる軍隊の攻撃が小規模散発的に感じられるのも至極当然なのだと思う。むしろ100万年もの時間が有りながら学習する事の無かったエイリアン達の無知、無謀さはイラク戦争の泥沼に嵌り込んだアメリカと脳天気な大統領に通じるアイロニーの様な気がしないでもない。

一家族が体験した異星人との戦争の姿。「世界戦争」という原題が皮肉だ。

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立秋

『初めて秋の気立つがゆへなれば也』(暦便覧)

本年は8月7日(日)。夏の暑さが最高潮に達し、秋に向かって行く頃。
行く夏を惜しむ様に、花火大会が各地で行われています。
と言う訳で
残暑お見舞い申し上げます。
一昨日地元で行われた花火大会に出かけてみました。
いつもは遠くから見るだけなのですが。。
頭上高く上がる大玉の、何故か大きな音に癒されます。
過ぎた事、小さな事に思い悩むなドッカ〜ンってね

ああ夏が過ぎて行く。

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過ちは繰りかえしませんから

「安らかにお眠り下さい、過ちは繰り返しませんから」
原爆犠牲者を追悼する平和記念公園に置かれた碑文の文字が、右翼の青年によって傷つけられたという8月6日を数日後に控えた広島から送られて来たニュースに耳を疑った。
「過ちは繰り返しませんから」という言葉が気に入らなかったという。
彼は碑文の言葉を自虐的とでも捉えたのだろうか?
それとも社会党出身の市長の存在が気に入らなかったのだろうか?
この文章が敢えて「私達は・・・」という言葉を使っていないのは何故か、「私達」に相当するこちら側にいるのは誰か、先の戦争を起こし、あるいはこれに参加した全ての国の国民、政府。「戦争を早期に集結させ上陸戦による犠牲者を少なくする為にやむを得なかった」とする立場。講和を模索する事で犠牲者を少しでも減らすという選択肢を放棄した「一億総玉砕」の立場、全てを超え、全てを含んだ言わば全ての人類。悲惨な原子爆弾が2度と人々の頭上で炸裂する事が無い様に、その全ての人類を代弁して碑文を記す。
碑文の作者に成り変わって私が理由を述べるならその様になるだろう。
彼はそれすらも否定するのだろうか?

彼は学校で何を勉強して来たのだろう、人付き合いに悩み、何気ない言葉に傷付いて思い悩んだ末に自ら解決方法を見い出す様な経験をした事はないのだろうか?いやあるかもしれない、有るからこそ特定の思想に嵌ってしまったのかも知れないが、だとすれば彼は解釈を間違えてしまったのだ。

他人を思い遣る、とは想像力だと思う。会話ならば我彼の関係性、表情、会話のテーマを、相互に関連づけて読み取った相手の真意を、あるいは柔らかく包み込み、あるいは強靱に跳ね返す作業。文章ならば行間を読み、情景を脳裏に描く能力。一歩間違えれば想像力は妄想力にも成り得る。彼は妄想力が豊かであったのかもしれない。過ちが再び繰り返されないように、今からでも遅くは無い、思い遣る心を磨いて欲しいものだ。

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